ことわざ辞典を走り読みしていますと、子供の頃は言語の機能性というか単語の使い方に目がいったものですが、大人になると解釈した意味ばかりがやけに響いてきて、感情を伴って感覚的に入り込んできます。
なので後でもう一度確認しようとしても、「どういう場面のどんな言い回しだったっけ・・」という観点から調べ直さなければならず、五十音順の索引はさほど使えないため結局探し出せず、の繰り返し。
ことわざの多くが、近代の生活で見ないような道具だったり作業だったりの一場面で、きっと誰もがよく陥りがちな共通項だったんだろうな・・・。しかし現代では通じず、っていう。。
「庇(もしくは軒)を貸して母屋をとられる」―――庇を貸すって・・・雨宿りのことでしょうか。家屋がまばらな田舎に住んでいる身としては、あまりピンとこないんですけど。住宅密集地ではあちこちで無断使用される庇があるのかしら。いやそれより物を売る商売の場所取りみたいなことか。
それにしても庇がある所はもうすでに私有地・・・土地の所有権がきちんと管理されている今日の法治国家においては、いくら長居しようとも人の目もあるし、家を盗られるまではいかないでしょう。昔はそういうところから簡単に居住地が決まっていたこともあったのかも。
同じ意味の別のことわざで見つけたのは、「鉈(なた)を貸して山を伐られる」・・・。ちょっとこれって、、、家は無事でも悪意の質がかなり上がって恐ろしさが増幅されそうな気配ではないですか。
庇を貸す方と違うのは、こちらには家屋以外に山も持っているという前提があること。田舎バージョンか?でもそういう個人所有の山って、人がこっそり入っていても全部を見渡すのは無理そうです。あくまでも外の人の道徳心に頼るのみ。
ここで貸される鉈は、おそらく所有者だけではやり切れない山の管理を手伝わせるためのものかと。そんなことでもなければ鉈を貸す用事などないだろうし、自分だけが鉈を持っていればいいのでちょっと誰かが立ち入るくらいは大目に見る余裕がないと、やっていられない規模の主ですからねぇ。
これ、問題は、鉈は庇と違って何本も手に入れるのが可能で、なおかつ持ち運びが出来ることにあるのですよ。「たくさんあるのだからいつでも使いたまえ」と条件も決めずに自由に使わせていると、やがて山を伐られ・・・やった後は、「自分の山じゃないから知らないもーん」と逃げられる・・・。伐られるは例えであって、不毛にされる意味も含んでいるとしたら住むこともままならなくなるわけです。そこにポツンと取り残されるのは辛いだろうに。場合によっては持ち主が山を不毛にしたことにされる可能性も。
そんなことを勝手に想像して、こちらのことわざはズシーンときたのでございます。君取は山なんて持っていないけど、物を貸すことの重大性を改めて考えてしまいました。自分だけが持っている物をいかにして活用するか、これは物だけに限られることではない気もしますから。
人に知恵を貸して、その知恵を悪用されて逆に窮地に立たされることなんてのは、よくあることではないですか。でも知っていることを教えないとそれはそれで責められたり、自分が損をすることに繋がったりも―――ああもう、悪意ひとつで生きている連中って、何とかならないのかね?