DQNという言葉の定義は曖昧でありつつも、他の言葉と同じく曲解によって、似たような悪質性を持ちながら該当を逃れている人間が潜在的に多いのは実に困りものです。
一部の職種を除いて学歴社会が緩くなり、実力や経験値が就職を左右するようになってけっこう経ちます。けれどせっかく収入が学力に縛られなくなり間口が増えても、世間からは不満の声ばかりが聞こえてきます。
ちょっと強引ではありますが人間をざっくり2種類に分けたとして(実際はそんなこと不可能ですよもちろん)、頭のいい人と頭の悪い人とがいるわけですよね。そしてその両方に、これまたざっくりとではありますが性格のいい人間と悪い人間とが混ざっているわけです。
今までは性格が良かろうと悪かろうと、頭が良くて比較的広範囲の能力が高いとされる人が仕事の選択肢が多く、生活水準を上げられるポストを占めていました。
これが学歴の壁が取り払われると、今度は下から能力が高くなくとも悪知恵が発達した性格の悪い者の方が多めに入ってきやすくなるのです。どうやって限られたポストの中に入り込むのかというと、高学歴の人の内、性格のいい人間を引きずりおろしてその隙間に行くのです。これしか方法はあり得ません。
つまり、いくら壁をなくしたところで本来融通されるべきの、能力は少々劣るも誠実に生きている人々はいつまでもステップアップが許されず、それどころか有能な人がどんどん潰されて、働き手の大部分を「能力が高くて性格が悪い人」と「能力が低くて性格が悪い人」とに巣食われてしまう可能性すらあります。これでは合理的かつ迅速な仕事は出来ても、物事を円満に運ぶ社会とは遠くなるでしょう。
さらに頭が痛いのは、悪だくみの結束力はかなり強固だという点です。能力が低くても世渡りが上手な人は、何かしら得をするために能力が高い人間には取り入りたいと願って、何でも言いなりになりやすい傾向があります。それがたとえ間違っていようとお構いなし。自分さえ安全を確保できれば何でもいいのだから。
そして能力が高くて性格の悪い人にとって、そういった利害だけで結び付いた関係を築くには、温かい気持ちを持った性格のいい人など使いにくく邪魔なだけ。それに賢さで足をすくわれたくもないので、頭が悪い人間のみを手元に置きたいといった信条でしょう。
都会だけの話かと思ったら割合そうでもなく・・・。むしろ田舎に適応しすぎる人間は、外の世界に対して共通の悪者を作り上げ、一致団結して批判を繰り広げるのが慣例化しており、その条件のひとつが高学歴だったりするのも珍しくないのです。
単純な人間は、いいことをしたら高学歴だからだと褒め上げ、悪いことをしても高学歴だからとこき下ろす。そんな肩書きに踊らされずに、人間の中身を見て欲しいと思います。学歴や勤務年数でさえ人格を構成するほんの一部分に過ぎないのであり、人間性は別のところにあるといってもいいほどです。