だいたいの人がわかっていることだとは思いますが、ひどい拝金主義の人が根絶せずに必ず出現する背景には人間の哀しい葛藤があります。便利で快適な生活を望みながらも、簡単にそこに達してしまうと慢心が生じるために、常に自らを律していかなければなりません。戦争などの非常時ではないので、人々の関心はもっぱら、なりたい自分を追求することになります。考えてみればとても漠然とした目標で、現実にしていることといえば、素晴らしい人間の条件をあげて近付く、もしくは悪い人間の条件をあげて避ける、の連続ではないかと思います。
なんだか、そうやってマニュアル化したノウハウのように人間関係を築くのは、ひどく不自然といえます。狭い範囲だけで通用するイメージにとらわれ、操られている状態です。「えー私そんなことしてないわ」と言う人たちほど、自分を正当化する証拠作りの行動しか選んでいない人生なのです。彼らにとっては、「○○をしている人は偉い」「△△よりも○○の方が価値がある」と何かにつけて勝手な評価を下し、いずれ「××はけしからん」「○○をやりさえすればいい」という、人間の様々な姿勢・行動を順位をつけて序列化します。
それもおかしなことに、自分が完璧な人間でないのにこの人らは、どこかに完璧な人がいると信じて崇拝し、事あるごとにその人物像を例に出して、絶え間なく誰かを非難し続けています。たとえば仕事と家事・育児を全てこなしている主婦などを取り上げて、そうでない主婦を小バカにしたり。自分がその立場にないのをいいことに、完全に人を見下している最低な輩です。厄介なのは、この人らがそこそこ社会に溶け込んで(へつらい上手の世渡り上手なので)、あえて責めるほどでもない安全圏にいるという点なのです。
目に見える範囲でちょっとでも人の役に立っていれば、少々の悪事は許されてしまう。ここが人間の盲点です。暴走族なんかはその典型です。彼らの多くは、昼間は普通に働き、その金で車を改造したり好きなように走って何が悪いの?という発想なのでしょう。法律違反を説いても法に触れない程度の迷惑をかけます。大人の悪い組織はこうした活動がエスカレートした結果に過ぎません。振り込め詐欺集団やら当たり屋やら、一般人が眉をひそめる各種いかがわしい仕事に関わる人は、皆が大目に見がちな「自分で金を稼いでいれば何をしてもいい」の悪用なのです。
人格だなんだと言いながら、人は目に見える行動の善し悪しに価値基準を左右されています。これもひとえに、“もらった分だけ返す”とか、“回収できる分しか与えない”といった、数値に基づいた物差しの見方から起こるものです。お金や物の貸し借り・契約事では当然の常識として絶対不可欠なものでも、日常生活すべてにこの感覚を当てはめるのは変だと思いませんか。感情は量で測れるものではないし、そもそも人間の思い付くことなんて個人の思い込みによる部分が多かったりします。客観視は難しいのだから、人より得をしようとしても意味がなかったりして・・・。ひどい場合には、誰かを損に追い込んで得を奪っているのかもしれません。
いずれにせよ、日常会話中に細かで不確かな分析力のひけらかしはやめようぜ☆